なぜ食べる、なぜ生きる

 ある年の、正月のこと。
 私はテレビを見ながら、奇異な思いをいだいていた。

 どのチャンネルに変えても、
 「明けまして、おめでとう!」
 「おめでとう!」
 と連呼しているのだ。

 いったい、なにが、めでたいのか。じつは子供のころから疑問であった。


 私には何人ものおじさんがいる。
 そして、新年には必ず全員、実家に集まって酒宴をするという長年の決まりごとがあったのであるが、前の年に、一人のおじさんが、ガンになったと聞いていた。そのおじさんも、この新年祝いに顔を出すとのことだった。

 久しぶりに会ったおじさんは、ぎょっとするほど、やせこけていた。
 えっ? これが、あのおじさん?
 まわりじゅう、明けましておめでとう、おめでとうと言い合うなか、私は、ずっと、そのおじさんを見ていた。
 おじさんは、だまってうつむいている。

 宴会がはじまる。みんな、去年の紅白はどうだったとか、このまえ近所で子供が生まれたとか、そんな話をしながら、ワハハ、ワハハとビールをつぎ、料理に舌つづみを打っている。だが、そのおじさんは、ずっと、下を向き、ときどき、声もなくあいそ笑いをするだけで、言葉はひとことも発しなかった。

 おじさんは、その年に入ってまもなく、亡くなった。

 私は、しばらく考えこんだ。あの場で、みんな、おめでとうおめでとうと言っていたけれど、いったい、新年が明けて、なにがおめでたかったのだろう?

 年が明けたということは、去年という、貴重な1年が、過ぎ去ってしまったということ。つまり、私は歳をとってしまった、ということである。
 こんなに健康に気をつかっているのに、寿命を、1年分、使い切ってしまった。

 もっと単刀直入に言うなら、年が明けたということは、1年、死に近づいてしまったことになる。
 単純に「おめでとう」と言い合っている場合ではなかろう。


 人生において、健康ほどだいじなものは少ない。ただ、いくら健康に気をつかっていても、避けられないことが、人生にはある。
 死だ。

 私たちは、死にたくないから、毎日、健康に気をつけている。
 ところが、1日生きたということは、1日、死に向かって前進したということだし、新年が明けたということは、まる1年、大きく、墓場に近づいたということ。

 私たちは、タバコとか、睡眠不足とか、体にわるいことはなるべく避けようとする。
 しかしながら、じつは、人間であること自体、そもそも、体にわるいのだ。

 1日生きることほど、体によくないことはない。
 これは事実である以上、目をつぶらないで、事実として認識しておく必要があるだろう。
 自分は、死ぬ存在である。
 この基本を忘れてしまったら、どれだけ健康に気をつけて生きてたって、しかたないのではないか。

 死ぬ存在が、健康になるために努める。
 このパラドックスを踏みこえて、勇気と、希望と、慈愛をもって生きるには、
 「私の命は、このためにある!」
 という人生究極のミッションを獲得し、それに向かうしかない。


 元旦には、多くの人が1年の抱負を定める。1年といっても、1日、1日の積み重ねだ。きょうという1日が、365回くりかえされたものが1年となるのであるから、きょう1日の健康は、非常に大切だ。

 きょうという1日を、自己ベストの輝きにするために、ひいては人生を大満足に生き、大安心で死ぬために、この1日2食健康法があるのだ。


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