コラム 一億総王侯貴族時代の悲劇
あなたはいま、しあわせを実感しているであろうか?
自信を持って「自分は幸せだ」と高らかに宣言できる人は少ないだろう。
日々報じられるニュースは、明るいニュースよりも暗いニュースが圧倒的に多いことも、それを如実に物語っているように思えてならない。
私たちが朝から晩までやっていることは、
「しあわせになるため」
ただこの一点に向けられているはず。
そもそも有史以来、人類のすべての営みは、この目的達成のために行われてきたこと以外になく、それが今日までめんめんと続いているものが、いま私たちが目にしている文化であり、この世界そのものである。
そうであるならば、私たちは、よほど幸せになっていてもしかるべきではないか。
ところが実際はそうなっていない。
特に不幸ではないけれど、特に幸せでもない。
そんな人が、人口の圧倒的な割合を占めるのではあるまいか。
あるいは、「自分はとても不幸だ」と嘆いている人のほうが、もしかしたら多いのかもしれない。
いずれにしても、私たちはどうやら「幸せ」という実感に関しては、平安時代のころからさほど進歩していないのではないか。
文化や習慣が変わっただけで、それらを介して得られる幸せという感覚は減りもしなければ増えてもいないような気がすると言ったら言い過ぎであろうか。
こと食事に関して言えば、私たちは今や、日本にいながらにして世界中の食材を口にすることができる。
それを飽食の時代と揶揄(やゆ)する人もあり、グルメの時代と称賛する人もいる。
では、その「グルメの時代」を迎えた私たちは、いったい、幸せになったのか。
平安時代といえば、藤原道長が権勢を誇った時代。
この藤原道長、『小右記』という古文書によると、たいへんな奇病に冒されて死んだとある。
「のどが渇いて、水を大量に飲む」
「やせ細って、体力がなくなった」
「背中に腫れ物ができた」
「目が見えなくなった」
実はこれ、みんな糖尿病の症状なのだ。
これが日本最古の糖尿病の記録と言われている。
中世ヨーロッパの王侯貴族の間でも、糖尿病にかかる人が多かったらしい。
ところが、平成の日本ではどうか。
この、貴族にしか縁がなかった病気に600万人もの人がかかっており、その予備軍になると1200万人から1500万人ともいわれている。
これを異常事態といわずになんというのか。
グルメそのものが、悪いことだとは思わぬ。
たまには、おいしいものをおなかいっぱい食べることも、豊かな人生のためには必要なことだってあるだろう。
ところが私たちの食卓は、毎日がグルメである。
意識するとしないとにかかわらず、ほんのひと昔前の日本人が見たなら、卒倒するような豪華ケンランの食事のオンパレード。
毎食が、王侯貴族の食卓。
それも、朝、昼、晩と、ごていねいに3食も食べている。
ところが驚いたことに、それでいて、そんな食卓でほんとうに心が満たされている人は誰もいない。
いつもの食事を、いつもの調子で、いつも通りにかきこむ。
いただきますも適当ならば、ごちそうさまもいい加減。
食事は、食べて当然。
もっとうまいものはないのかと不平不満を言い散らす。
バランスよい食事をとって当然。
1日30品目以上の食品をとりましょう。
この「1日30品目」などは特に、人間のゴ都合主義で生まれた、
あまりにも無謀な提案。
「1日30種類以上の動植物のいのちを奪いましょう」
こう言い換えるとマユをひそめる人もあるだろう。
だが、まったく同じ意味である。
このことを考えている人がどれだけいるのであろうか。
因果応報という言葉がある。
藤原道長は、なぜ糖尿病にならなければいけなかったのか。
言わずもがな。自分の生命をながらえるために必要とする量の何倍、何10倍とむさぼり食ったからだ。
必要以上にいのちを搾取した結果は、必ずその本人が受けなければならない。
因果応報である。
いまの世の中、食べるものがあふれすぎている。
街を歩けば飲食店が軒(のき)をつらねている。
コンビニは乱立して24時間食べものがカンタンに手に入る。
こんな時代にあって、少食という生き方はむずかしいのかもしれない。
だが、そこを、自分で正しいと信じる道を行く。
自分のいのちを維持するための、必要最小限の食事をとって生きていく。
これが実行できたとき、人は病気から解放され、寿命をまっとうすることができるのだ。
ただ、必要最小限の食事で生きることは至難の技。
ならばせめて、できる限りの少食を心がけて生きていこうではないか。
それには、朝食を抜き、1日2食をまず習慣にしてはどうか。
そうすれば、体のあらゆる不調は改善し、長生きもできるのだからなおのことだ。
戦後、私たちは、「食べる」という行為をあまりにも安易に考えてきてしまったように思えてならない。
本当のグルメとはいったい何なのか。
このへんで、一度じっくりと考えてみる必要があるのかもしれぬ。
